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Anjo city Museum of History.

安城市歴史博物館の施設を紹介します。

日本デンマーク


日本デンマーク

日本丁抹デンマーク

  大正時代末期から昭和時代初期にかけて、安城を中心とした碧海郡は、「日本丁抹(デンマーク)」と呼ばれました。当時世界的な農業国であったデンマークの名が冠せられたのは、単に農業経営が多角的で教育・指導機関が充実し、組合組織が発達していたこと等、農業のあり方が先進的であったことだけではありませんでした。

「日本丁抹」と呼ばれる

最初は大正12年?

 「日本デンマーク」という言葉がいつ、誰によって使われ出したかについては判然としていません。『汗堂回想録』(岩瀬和市1975)によれば大阪毎日新聞に掲載されたのを始まりであるとし、『郷土研究愛知県地誌』によると大正12年(1923)に日本丁抹という名で紹介されたとありますが、いずれも確認されていません。

確認できる最古の「日本丁抹」

 また、大正14年(1925)12月発行の『安城農報』24号では、巻頭に愛知県立農事試験場長上野操の「新任の辞」が掲載され、その中で、「本県は、(中略)今や日本のデンマークであるとまで賛美絶叫せらるるにいたりました。」と述べられています。これは必ずしも主語が碧海郡ではないが、『安城農報』の発行事情から考えて、この地を意識していることは十分考えられます。


はじめは「日本のデンマーク」

 大正15年(1926)5月発行の『農政研究』は、日本の丁抹号と銘打たれ、碧海郡の農業が待集されています。この頃には「日本のデンマーク」という言葉が定着していたことがわかります。初期のものには、日本のデンマークというように、「の」がつけられていたようです。

「デンマーク」にこめられた理想

 「日本デンマーク」という名前には、日本において農村問題の解決・農村振興という課題をどのように解決すべきであるかを模索している中にあって、農村を人間らしく生きる場とすることに取り組み、ある程度それを形にしつつあった碧海郡に、理想の国デンマークの姿を投影させて見ようという意味が込められていたと考えられます。


『農政研究』日本丁抹號

『農政研究』 日本の丁抹号
『農政研究』 日本の丁抹号

 大正15年(1926年)に発行された特集号で、通常120~130頁の月刊誌であるが、この号に限って180頁を費やして待集されています。その多くは、碧海郡が「理想郷」となった原動力として教育の力を重要視しており、中でも山崎延吉の活動を評価する記事が目立ちます。編集者の古瀬博蔵は「日本の丁抹と日本のグルンドイッヒ」と題して執筆し、山崎延吉をデンマークの国民高等学校の創立者であるグルンドウィッヒになぞらえて評価しています。なお、本文中に財団法人農村文化協会が碧海郡の一般を活動写真で撮影して紹介し、「全日本を丁抹化すべく計画中」とあります。